なんでやねん、どうしてこんなにちょいちょい違うねん!
と茶道のお稽古で私は叫んだ。脳内で。
真夏の朝、今日の稽古は茶箱のお点前。
茶箱というのは、お茶道具を箱に詰めて持ち運べるようにしたものです。
前回も同じ茶箱のお点前だったので「今回は前回やったことをやるだけ。もう少しできるだろう」と思っていました。
でも、いざ始まってみると、全然できなかったんです。
正確には、「同じ茶箱」だけど、前回とは道具の置き方が少し違っていました。
何が違ったのか。
前回は、茶箱の蓋の上に、茶筅やなつめなどの道具を並べていきました。
ところが今回は、お盆の上に道具を並べていきます。
たった、それだけの違い。
茶箱であることには変わりありません。中に入っている茶道具は一緒だし、お点前の大まかな流れも一緒です。
なのに。
手が止まりました。
「……あれ?」
思考も止まりました。
次に何をすればいいのか考えても、頭が真っ白で解を出さないのです。

茶箱は、前回やったはずなのに。
なんとか答えを出そうと真剣にお盆を見つめていましたが、もう降参。
肩をふっとおろしながら「先週やったのに…」とつぶやくと、先輩たちが笑ってくれました。
場が和んで嬉しかったのですが! お点前ができるようにはなりません。
先生が言うとおりに手を動かしてなんとか終えましたが、ただ言われて動かすだけなので、全然理解も体得もできてないんですよね。
チーン…となっていたら、稽古の終わり頃、先生が、
「もう一回、茶箱のお点前をやってみる?」
と提案してくれました。
先輩が別のお点前をしている間に、もう一度茶箱のお点前をすることに。
先生は、先輩のお点前を見ながら、同時に私のも見て、どちらにも声をかけてくれます。
すると、さっきより分かる…!
一度目には頭の中が「???」でいっぱいだったところが、二度目には少しつながってくる感覚がありました。
「ああ、ここでこうするのか」
「前回と今回で違うのは、こういう理由があるのか」
身体と頭が少しずつ追いついてきて、前回と今回でお点前が違う理由が見えてきました。
そこで、思ったんです。
茶道の点前がたくさんある理由はこれなのかも。

型が数え切れないほどある理由
茶道には数え切れないほどの点前、つまり型があります。
ひとつ道具を変えるだけで、手順が変わります。それはもう無限のパターン。
なんでこんなに変えるんだろう。1つに統一してくれたらすぐ覚えられるのに。
そう思っていました。
でも、違うからこそ、私たちは一歩深く考えられるんです。
なぜこの配置なのか。
なぜこの順番なのか。
なぜ右手なのか。
考えると理由が見えてきます。
型が一つしかなければ、すぐに覚えられるし、疑問も湧きません。
でも違う型を習うからこそ、疑問に思います。比較します。
だからこそ、一歩深く考えられるのです。
「だからこの配置なんだ」と理由が腹落ちすれば忘れにくいし、別のシーンでも応用が効きます。

「覚えた」と「身についた」は違う
私たちは何かを一度できるようになると、「できるようになった」と感じます。
でも、少し条件が変わっただけで、できなくなることがありますよね。
ピアノなら、練習した曲は弾けるけれど、少しテンポを変えたり、途中から弾いてと言われたりすると急に弾けなくなる。
スポーツでも、決まった練習ではできるけど、実際の試合になるとできない。
料理でも、レシピ通りなら作れるけれど、材料が一つ足りなくなると途端に困る。
本当に身についたと言えるのは、覚えただけでなく、少し条件が変わっても対応できるようになったときではないでしょうか。
にも関わらず、私たちは同じことを繰り返すとすぐに飽きるし、「できるようになった!」と思ってしまう。
だから、「いやいやお前さん本当にできるようになったんかね?!え?」と試されているのかもしれません。複数の型を用意して、微妙に条件を変えて。
「知っている」と「使える」の間には、思っている以上に大きな距離があるんだよ、という挑戦状が突きつけられています。

ルールが多い=窮屈なのか?
今回のお稽古でもっとも面白かったのが、先生が「もう一度やってみる?」と言ってくれたこと。
そのおかげですぐに復習できて、同じことを繰り返しているのに、見える景色は少し違う、という体験をしました。
一般的に、型に対してはネガティブな意見も多く、「ルールがあって息苦しい」「自由が奪われる」と言われます。
でも、同じことを繰り返さないで、小さな変化に気づけるでしょうか。
科学の実験では、対照実験といって条件をすべて同じにします。そうしないと apple to apple にならなくて、正確な比較ができないからです。
型というルールがあることで、条件がすべて同じになり、自分に起こる小さな変化に気づきやすくなるというメリットもあります。
また、別の型と比較することで
「なぜここに置くのか」
「なぜこの順番なのか」
「身体はどう動くと自然なのか」
を理解していく。
最初はただ真似していた動きが、何度も繰り返すうちに、全体像を掴み、自分のものになっていく。
そう考えると、型は「自由を奪うための決まり」ではなく、自由に動ける身体をつくるための土台なのかもしれません。
今回、私は「茶箱の蓋」と「お盆」の2つの型を稽古しましたが、また違う型が出てきたら、今わたしの中にある「茶箱のお点前」というフォーマットは崩壊するでしょう。笑
そして、また戸惑うのです。
なぜこの配置?なぜこの順番?なんで違うの?
そうして「茶箱のお点前」フォーマットはアップデートされて太くなっていくはずです。
茶道をはじめとした日本文化に「型」がたくさんあるのは
「できるようになるため」ではなく、
できないところに何度も戻っていくため
なのかもしれません。
修行は続く…




