週に1回茶道のお稽古がある。それ以外にもときどき茶会のお手伝いや、ゲストとして茶会に参加している。
日々、稽古の日を楽しみにしている。週末が明けて平日になると、次の稽古まであと何日だと指折り数える。早くその日が来てほしい。稽古が終われば、次はあと1週間かともう翌週のことを考えている。稽古がお休みの週はつまらない。なんでお休みなんだ行きたいのにと、それくらい生きがいになっている。
なぜこんなにも楽しみなのだろう。その理由を探ってみたい。
お点前はとにかく楽しい。これまでできなかったお点前ができるようになることが嬉しい。所作がスムーズに進むとなによりも快感である。ただお点前に集中する。手がきれいに動く。自分の意思ではなく、何かに動かされているようなときもある。棗を袱紗で拭く。ただそれだけの行為だが、たったひとつの小さな動きをゆっくり心を留めて行うことが、なぜだかとても気持ちが良い。所作にたなびく、美しく流れる余韻を感じる。
お点前が、季節や道具によって少し変わるところもみそで、本当に100%同じ所作の繰り返しだと多分飽きる。だけど絶妙なタイミングでちょこちょこ変わってくるので、飽きというものがない。1年間常に、「ここは右からで次は左から」などと、改めて注意しないとできない部分が必ずある。だから同じ点前を繰り返すといっても油断ができない。たとえ覚えられても次にその点前があるのは1年後。そのときには忘れていたりするので、思い出そうと刺激になる。
理不尽なお点前の変容もある。たとえば基本的には右手で道具を手に取るが、なぜか左でなければいけないときがある。全部右手にしてしまえば簡単なのに、ひょっとしたところで左が出てくる。考えた人になんで!と物申したくなるが、なぜわざわざそうしたのだろうと考えるのも面白かったりする。なにか理由があるのかもしれない。真意はわからないけれど、そうやって思考や空想をふくらますのは一興である。
生徒何人かで同じ茶という場を共有するが、お点前をするのは一人だけというのもよい。複数人でひとつのことを分担すると、いがみあいとか喧嘩も発生するが(スポーツの試合とか)、お茶は基本的に点てるのは一人なので、自分がしていることに集中できる。かといって孤独や独善的になるわけでもなく、他の生徒は一人の点前を見ているし、先生や他の生徒から指摘も受ける。そこ迷うよねという部分は共有ができるし、ここがすごいすてきみたいなところもお互いに気がつく。基本的に茶道が好きで習っている人が集まっているので、お互いに影響を与え合いつつ、精進ができる。
先生に頼りにされるのも嬉しい。めったに言葉で褒められることはないが、「○○さん、これをして」「○○さん、今度のお茶会手伝いに来てくれる?」と言われるということは、頼りにされ、目をかけてもらっているということ。それはお点前がある程度できているという証だし、任せられるレベルに達しているということ。「すごいね」と褒められるよりも、「手伝って」と言われる方が嬉しい。なぜなら、実際に使える人(という言葉はあまりよくないかもしれないが)と思われているということだから。
ただここで注意しなきゃいけないのが、他の生徒よりも優れている優越感による嬉しさという可能性。誰かより優れていることを喜びと結びつけてしまうのは、あまりよくない気がする。世の中には自分より優れている人は多くいるからとても脆い喜びになるし、なにより一緒に学ぶ仲間を自分より劣っていると思っていることになるから。優越感は誰にでもあるものだから、0にはできないけれど。
だからこそ、優越感ではないものに目を向けておきたい。先生から目をかけられて、信頼に応えられるよう学び、出力して、更にその学びの過程がレベルアップしていく。先生が教えることも、より高度により深くなっていく。より高度で深いことを学べて私も嬉しい。自分と誰かを比べたうえでの優越感ではなく、この循環そのものが喜びになっていたいと強く思う。
この愛情や知の交換を循環と呼びたい。一方通行ではなく、相乗効果。人と人の間でぐるぐるまわって高まっている。この循環が、お茶稽古の一番の喜びなのかも。興味があって学びたいのはもちろんだけれど、ただ茶道をするだけではたぶん今よりも味気ない。先生と自分の間で循環し育まれていく何かがあるからこそ、毎週の稽古日が楽しくて仕方ない。
そう今は結論づけている。