濃茶を点てている。急に静かになる。視線が集まる。手が震える。今動かしている所作に集中しよう。そう思い直す。
抹茶を茶碗にすくっていれる。抹茶の量がこれでいいのか、不安な心持ち。先生に茶碗の中を見せてたずねる。
お湯を注ぎ入れる。どれくらいお湯を注いだらいいか、いつもはっきりしない。でも濃茶を初めて点てたころよりは、だいぶ湯量の見当がついている。緑の山と茶碗の間に、少しだけ水面が広がるくらい。まるで洞爺湖のように。茶碗を上から覗いたときに、お湯が湖面で、抹茶の山が中島。洞爺湖よりは、だいぶ湖面が少ないけれど。
はじめはお湯が少し多かったかなと思うが、茶せんで抹茶を練っているととろみが出てくる。大丈夫になってゆく。
お湯がしっかり沸いているから、完成した濃茶からも湯気が昇っている。
お客さんの手元に届いても湯気がある。それが正しいのかはわからないけど、熱があるうちに届けられてよかったと根拠のない確信がある。
3人で一椀を分ける。一人目のお客さんが飲み、二人目をどうぞと先生が私に譲ってくれた。
少なめに飲み、先生に回す。
あまり飲んでいないんじゃない、と気づく。
「先生にたくさん飲んでいただこうと」と言いながら、そうだったのかと自分で発見s塗る。
お点前が終わり、抹茶のついてしまった帛紗を、水屋ではたく。
気付いた先生が、「はたいている」と口にする。
お茶が愛されるのは、誰かが自分を気にかけてくれている、気配を感じられるからではないか。
私の所作を誰かが見てくれている。他者に受け容れられている。
そういえば掛け軸について説明してくれるときも、「これをあなたに見ていただきたくて」という言葉が添えられていた。
この人に見てほしい。
この人に味わってほしい。
この人がこれをしていると誰かが知っている。
そのような愛が、茶室では注がれている。